2013年10月21日月曜日

日本語


【ゆめタウン】という大きなマーケットに買い物に行った。行ったついでに、散歩しようと思って、店を眺めながら、中を歩いたのだが、看板だけでは、何を売っているものやら分からない。殆どが横文字か、カタカナことばの店名である。

ま、店の展示物を見れば分かるのだが、どうして日本人相手に分かるような名をつけないのかと、不思議に思う。

これは、夢タウンに限ったことではない。道路ぶちの商店などは、車の中からは、店内など見えないものだから、何屋さんか分からない新しい店があちこちにできている。

日本人でありながら日本の新聞雑誌のカタカナことばが理解できない、という情けないことがよくある。ひどいものになると、文章の半分以上もカタカナで埋めたチンプンカンプンの広告文などにもお目にかかる。

こんなこといっちゃあ何だが、私だって、まんざらモノの分からぬバアさんじゃない。横文字にはめっぽうヨワイが、こんな年寄りは、箒で掃いて捨てても余りあるはずである。それほどの数の者を新聞や広告が、眼中になしとするならば、これはもう僻みたい。

正直言って、「こんなこと言うのは、年老いた証拠やな」という気持ちもないことはない。新聞程度の常識に追いつく精進もせず、視野狭窄に甘んじている……という負い目もあることなので、このことはこれでおいておこう。

問題は別にある。日本語を、こうもケソケソに扱っていいのか、という、国語に対するわれわれの基本的精神とか態度に関する事柄なのである。

私は何も、戦中のように、「カメラ」や「インスタント」までも日本語で‥‥と言っているのではない。日本語をよそ語に置き換えて使うということと、物事を地球規模で考えよう、ということとは、まったく次元の違う問題である。

私は、「ことばは文化の礎」と固く信じているので、日本人は日本語を大切に育てていかねばならないと思っている。語彙はお金と反対で、使わないと消えていく運命にあるもの。死語の歴史を見ればよく解る。

どうも日本人はむかしから、西洋かぶれをインテリと勘違いしているらしい。本物のインテリは、自国の文化を育てこそすれ、霧散させたりはしないはずだ。だからこの責任、えせインテリにあり、と私は言いたい。

カタカナことばの氾濫は、もうすでに危険水域を突破している。ここでタガをガチッとはめておかないと、日本語は、停電の冷蔵庫の中味みたいに、何もかも萎びていく。日本人の大切な食料を萎びさせては大ごとである。文化遺産ともいわれている「方言」が、どんどん消滅している時代だからといって、日本語自体、霧消させてしまってはたまらない。もうすでに、かなりの若者たちの日本語は、萎びている。

「日本語よ! シコ踏んで頑張っておくれ!」 と叫びたい。
古いと笑われても、昭和一桁族の僻みといわれても、何度でも叫びたい。

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