2013年10月9日水曜日

紺屋の白袴


私の息子は、「センセの子はトクやなあ」と、友だちから羨ましがられることが多かったようだ。家に帰ってからも、宿題でも分からないことでも教えてもらえるのだから、というのだが、多くの先生方の子どもたちは、そんなにトクをしているわけではなかっただろう。私などは、まったく【紺屋の白袴】だった。

子どもが小学生になって始めて宿題のプリントを持ち帰ったときのことを私は今も忘れていない。無責任な親だったと、反省している。

「先生が、お家の人に、これ見せて読んでもらって答えを書いて来なさいって言ったから、読んで」と言いながら、一枚のプリントを持ってきた。みると、魚の絵が大きくかいてあり、尾びれや背びれなどのところから→が出て、その先に(  )がついている。私は洗いものをしながら、チラとそれを見て、「ああ、その中に、せびれとか、おびれとか書いたらいいのよ」と言ったのだ。

子どもには、分からなかった(むなびれ)だけを教えたのだが、翌日、総ての(  )に赤ペンでピンがはねられて大きくO点と書かれていた。「ぼくひとりO点だった、とふくれている。よく見ると、プリントには小さな字で、泳ぐときに使うものに○、息をするときに動くのに△を付けなさい……とか書いてある。もう親の顔はない。「ごめんごめん」と謝ったが、考えなくてもそんなこと分かるはずだ。入学したばかりの子に、(せびれ)だの、(むなびれ)だのと、習ってもいない字を書かせるような宿題などあるはずがない。たまたま字が書けた子は、書いてしまった。そしてO点をいただいた。(笑)

息子は、よほど懲りたらしく、その後、私に宿題をみてくれと言ったことがほとんどない。「宿題は?」「できた」ですんだのだ。

当時の教師は、夜まで仕事を家に持ち帰るほどの忙しさだったものだから、無理もなかったのだ。今なら手製のプリントなど作らなくてもそんな教材は、いくらでも手に入るが、夜ともなれば、明日のための教材やら、連絡やらのための仕事があった。ガリ版、原紙、鉄筆は、家になくてはならない道具だった。

ガリ版など、今の教師たちは、知らないだろうが、謄写版で印刷する原紙を、ガリ版のやすりに載せて鉄筆で字を書く音が、ガリガリというので、そのやすり板のことをガリ版と言っていた。

当時の生徒数は50人。答案の採点だって、夜の仕事になることが多い。

今思うと、髪ふりみだして働いていた、という時代だつた。生活に余裕がなかつたという実感は、その時代に流行した歌を知らないことでも感じられる。TVはなかったし、ラジオから流れてくる歌さえ聞いていないので、知らないのだ。ラジオを聞く時間があまりなかったのだ。

1学年3クラスだったが、お産をなさる先生は、産前休暇は、あっても病気にでもならなければ、おっぴらにはとれなかった。代りの先生がこないので、残ったクラスに振り分けられる。教室は、机と椅子で、いっぱいになるし、他の先生に迷惑がかかるものだから、生まれる前日まで、出勤するのだ。産まれたら、産後の先生は来てくれる、というような時代だった。

お腹の中の赤ちゃんも心得ていたのか、私の経験では当時、勤務中に、赤ちゃんが生まれた先生はひとりもいなかった。(笑)

朝、出産近い先生が、職員朝礼に来ていない。「あ、生まれたのかしら」と、噂をする。各家に電話がまだなかったので、すぐには連絡は入らない。

そのうちに、電話が鳴り、職員室の黒板の隅に、【祝○○先生女子出産】と書かれるのを見てほっとするのだ。

こんなことを思い出して書いたのは、若い子が、【紺屋の白袴】って何のこと?と、親に聞いたところ、親も知らず、その親に聞いた、と、いう話を聞いたので(笑)懐かしい時代を思い出した次第。

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