通販で、ある器具を購入したときに、オマケに、100gほどの穀物(お米にいれて、いっしょに炊く)の袋を頂きました。
吉備、稗、粟、など、13種類の雑穀です。
袋の裏に書かれたそれを読みながら、ふと、思うことがありました。
寺田寅彦の随筆「柿の種」の最後に載せた句に、次のような句があります。
粟一粒秋三界を蔵しけり
一粒の粟(粟という字に、あわとルビがうたれています)の中に、この世のすべてがつまっている、と言う意味らしいのですが、寺田寅彦全集が作られた時に、この句、粟が栗になったそうです。
原因はよくは分からないそうですが、単なる間違いか、あるいは、選者の添削か……。
というのは、俳句をしている方は、よくご存じと思いますが、(私も、ある時期、俳句を教えていただきました)句会などで、ちょっとした字を直されたりしても、そのまま、作者の句として通します。それは、はじめは不服でしたが、それが、昔からの伝統で、つまりは、俳句は、作者や読む人らの共同の作品ということが分かってきます。
ちなみに、俳句に詳しい方の話では、粟では、平凡すぎるのだそうです。粟ではこの句は、それほど有名にはならなかっただろうと。
そして今や、最近の歳時記には、【栗】の項には、大抵この句が載っているそうです。私の持っている歳時記の何冊かの中にはありませんが……。
寅彦殿も多分「いい句になりました。ありがとう」と、おっしゃっていることでしょう。
そうなんですか。知りませんでした。でも、栗って1粒と言うかしら。1個じゃないの。1粒ってなんだか小さそう。
返信削除私なら粟を取りたいわ。あの小さい粒に秋が詰まっているって、好いと思うけど、駄目かなあ。
mimiさんが粟がいい、とおっしゃるのなら、粟のほうがいいのかな。
返信削除いずれにしましても、俳句は、読む人と、鑑賞する人とが、ぴったりこなければ、名句にはなりませんから、やはり、共同作品でしょうね。