今は亡き人ですが、徳島に、【田中富雄】という小説家がいらっしゃいました。その方が、徳島新聞の『阿波圏』というコーナーに、毎月一度執筆されていて、それを読ませていただくのが、とても楽しみでした。特に暖かいお人柄が滲みでている文章が、読む者の心を幸せな気分にして頂けたものです。
田中さんとは、私と夫、共に同じ学校に勤めていた時期がありました。そんな関係で、亡くなるまで、親しくしていただいたのです。
夫が亡くなって、何年かたったとき、田中さんが、阿波圏に、「教室でオシッコ」という文章を書かれていました。私は、この文章を切り抜いて、ノートにはりつけました。忘れたころにひょっと読むことがあり、そのたびにジーンと胸をしびれさせています。それは、夫のことを書いてくださっているからです。それを読むと、同じ教員として、私が【参ったなあ。真似はできない】と思い、【本当は優しい人だった】と、自分に言い聞かしております。なんせ、家では我儘ばかり言って、私を困らすことがよくあったからです。(笑)
それをここに載せて皆さんに読んでいただくのは、決して夫を自慢するためではありません。愛とは何かを考えていただきたいと思うからです。
<先生その1>
県立聾学校に、Aという生涯をろう教育に捧げた先生がいた。昭和四五年に、徳島新聞教育賞を受けられた方である。
若い時の研究授業中のことだが、時間を半分残して突如授業を中止したことがあった。見学中の先生方は、驚きかついぶかった。「教材の準備不足」としか説明しなかったからである。当然不評を買った。
それを心配したB先生は、後日、強くその理由を迫った。「名は言えないが、ある生徒が緊張してオシッコをまかした。あれ以上続けたら、おしっこが流れ出て、見学の先生方に見つかってしまうので止めた。大きな生徒だから、恥ずかしがるやろと思ってな」と答えたらしい。この話に注釈はいらない。B先生は、A先生の夫人となられた。
<先生その2と3>
ある日、私は教室の後ろに立たされて、C先生の激しい叱責を受けていた。先生は、大きな拳で、何度も私の頭を小突いた。私は恐怖にのぼせて小突かれるたびにオシッコをちびった。それは、長ズボンを伝わって、とうとう床に点々をえがいてしまったのだ。
「何だこれはっ。ええ?何だこれは!」C先生はわめいた。「みんな笑ったれ」とも言った。教室がどっと哄笑した。私は、屈辱に耐えかねて、涙がほとばしった。
大変な違いですねえ。研究授業を途中で中止するなんて普通の先生には出来ないでしょうね。でもC先生はひどい。性格も考え方も親子似るのね。
返信削除教え子に、愛のない先生に受け持たれた子どもは不幸です。そんな先生ばかりではありませんが、そんな先生に教えていただいても、先生を慕ったり、尊敬など出来ませんので、子どもにとっても不幸です。
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