『縁』というものは不思議なものです。「こうなったのも、何かの縁」ということは、やはり、人の力を越えた不思議な力というか、巡り合わせなのでしょう。親子、夫婦、親戚、友人、知り合い、こうした繋がりは、見えない糸のようなもので結ばれあって、そういうふうになってきたのだと思います。言うなれば、見えない糸が縁というものなのでしょうか。……と、おっしゃる方がたくさんおられます。
『縁が無くて独身』というのも、縁がないわけではないのです。自分の考えに会わないというだけのことでしょう。
糸は、初めから固定されたものではないと思います。自力で糸を求めることも出来ますし、出会うまでは、糸で結ばれても、すぐに切れることもあります。
糸は出会うところですべて切れると思った方がよさそうです。そのあとは、自分で紡いでいくもののように思います。ご縁を大事に育てていくか、放置するかは、その人の自由です。親を捨てる人、子を捨てる人、友達を大切にする人、周りの友達を自ら失っていく人、それぞれです。ご縁があっても、相手次第では、苦労をかけられる相手もいます。その縁を断ち切ることも出来ないわけではないけれど、世の掟にしたがって、苦労を続ける人もおります。
そう考えますと、『縁』は捨てることもできますし、捨てられるということは、拾うこともできそうです。それが縁でしょうか。
いつも上手く事を運ぶのが人生ではないので、悲喜交々の人生が当たり前です。そうした中で、最低限に人を傷つけずに自分の幸せを、どう確保していくかは、その人の生き方できまるでしょう。
幸せというのも、その人その人の生き方の中で育つもののように思います。大震災で職も家族も家も失った方が、汗を流し、防塵マスクをして瓦礫の片付け仕事をしています。「その仕事、汚いと思いませんか?」との質問に、「瓦礫は、皆さんの財産だった大切なものでした。汚いなんて思ったことありません。有難いです。この仕事がなかったら、どうなっていたでしょう。幸せになれてよかったです」と。それを見て、私は人間の素晴らしさを見たと思いました。どこにいても、人間は、幸せをつかもうとしているのです。そして掴むことができるのですね。
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