2013年8月15日木曜日

終戦の思い出


 
このブログが、500回目を迎えた。記念すべき日に、記念すべき日のことを書くことになった。
今、68年という歳月を巻返しながら、やはりかなりなものだと、あらためて感じ入っている。
もし、「今までの人生の中から10の思い出を」といわれたら、私は間違いなく終戦の日を入れるだろう。私にとって終戦は、強烈なショックだった。
 
しかし、いざライトを当ててみると、具体的なことは、かなりの部分が剥げ落ちており、はっきりとしないのだ。
だが、何とも名状しがたい感慨が心中渦巻いていて、私の中の貴重な思い出であることには変わりない。
 
その時私は女学校三年生。8月15日といえば当然夏休みのはずだが、そんな悠長なものは返上して、山へ行って原木を担いで持って帰ったり、(炭を焼くため)松根掘りや芋畑と化した運動場で、唐鍬をふるう毎日だったように記憶している。たしかその日は、「重大放送を家で聞くように」と、早ばやと帰された。
 
家に着くと、緊張した耳に、ガーガーというラジオの雑音が入ってきたた。古ぼけたそのラジオの前には、家族以外にも、二、三人はいたような気がするのだが確かではない。暑い盛りの日中のはずであるが、汗を流していたのか、団扇など手にしていたのか、はたまた暑さなど感じるゆとりなどなかったのか、こういうことはまったく思い出せない。
 
内容がよく聞き取れない放送を聞き終わり、みんな、「戦争が終わった、死なずにすんだんだ……」心中そう思っていたのはたしかなのだが、誰一人喜びを表すことはしなかった。いや、かなりの時間、大人たちは泣いていたような記憶がある。みんな、大声では泣かなかったが、鼻がやたらにぐすぐすと音をたてていた。
 
今日までの、多くの兵隊さんたちの死は、犬死じゃないか!
我々も、何のために鍋釜まで出して頑張ったのか!という悔しさが、みんなの頭の中で渦巻いていたのだろう。
 
今でこそ、侵略戦争とかいって、当時の指導者たちを責めているが、そのころは、世界のために悪者を征伐している、と思い込んでいたから、鬼畜生の米英に、国を取られ、奴隷になってしまう‥‥という脅えもあったと思う。
 
眠れないほどの空腹を抱えながら、いつ敵機にやられるか、という恐怖や苛立ちも口には出さず頑張っていたのだから、放送ごときもので裏返るのは、後ろめたかったのかもしれない。無理をして自分に「悔しくないか」と言聞かせていたふしもあるのではないだろうか……。
 
私も涙がわいて止まらなかった。思えば小学一年生のときに支那事変勃発、物心ついてからは戦争戦争である。「最後の一人になるまで戦う」ことを、信じて疑わなかった筋金入りの「軍国少女」であるから、眼の底が洪水になるのも無理ないことである。
 
今から思うと、十五才にも満たない子どもが、「討ちてし止まむ勝つまでは」などと口走り、お国のために死ぬ覚悟が出来ていたというのだから、恐いといえばこんな恐いことはあるまい。教育次第では、骨の髄まで変えられる、ということかもしれない。
 
私の忘れ得ぬ終戦記念日も、このように、「泣いた」ことぐらいしか思い出すことは出来ないのだが、ひと月もたつと、自分たちにも、平和と自由があたえられたことを、じんわりと感じはじめたのを覚えている。
それまでは外来語のようでもあり、惨めったらしくもありで、使えなかった「敗戦」ということばにも馴染めだした。
 
戦後の衣食住の苦労は、今から思うと、戦中よりひどいものだったけれど、平和という安心のチケットを握っていたためか、気持ちの中はカラッとしたものがあった。
 
今、日本は、右へ右へと、ハンドルを切っている。そのうちに、日本は軍隊が出来、いやおうなく、戦場に駆り出されるかもしれないのだ。たとえ、日本が主役でなくても、手を組んでいるアメリカが戦っていたら、共に助け合うということで、出陣の可能性は、大いにあるのだ。いくら、憲法があっても、憲法の解釈をゆるめて、集団的自衛権行使の容認に向かって突っ走る安倍さんは、戦争体験はない。戦争の本当の怖さを知らないらしい。怖い怖いおじさんだ。……と、私は思う。
 

2 件のコメント:

  1. 終戦の日私は家にいました。寮に食料が無くなったので帰されたのです。夏休みはいい口実だったと思います。徹夜で並んで切符を買い、鈴なりの汽車に乗り、命がけの連絡船で高松経由で帰りました。大阪湾にはアメリカの戦艦が来ているとか、連日連夜のグラマン攻撃でした。死の恐怖さえ感じる余裕はなかったですね。

    帰って見ると田舎は案外のんびりしていました。私は終戦のラジオは聞いていません。道を歩いていると誰かが戦争は終わったと知らせてくれました。灯火管制のないその夜の電燈の明るさが忘れられません。

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    1. 当時、私の1学年上の人たちまで、学業を捨てて、軍需工場などで働いていました。その工場が爆撃されたり、敵機に狙われて機銃掃射で撃たれて即死したり、大変な目にあっています。

      戦争の悲劇を語りたくないという気持ち、分からぬでもありませんが、やはり、伝えるべきですね。

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