2013年11月8日金曜日

我が家の味


朝ドラの【ごちそうさま】を見ながらよく、子どものころの我が家の味を思い出す。 

私には、幼いころの楽しい食事の思い出はあまりない。母に連れられていった先でいただいた、親子丼のおいしさに、目を白黒させたことぐらいである。ただ、今なら高価ないくらや、数の子、鮭は、たらふく食べて大きくなったが、特別な料理をしてもらったわけではない。北海道の特産品で、珍しくもなんでもなかった。

もの心ついてからの何年かは、まだ何でも口に入る時代だったが、祖母や母は、たぶん料理までも心くばりはできなかったのと、きりつめた生活をしていたのだろう。これといった珍しいものを食べた記憶もないし、食堂やレストランでの食事、店屋ものをとる、といったこともなかった。ましてや、フォークやナイフを使っての食事など夢にもなく、カレーライスが唯一の洋食だった。おまけに、「食べ物のことで文句はいうな」と、厳しく躾られた。

こんな私にくらべると、夫のほうは贅沢していたらしい。年に一度は家族揃って「ふぐさし」を食べにいっていたほどだ。また、月に一、二度は、デパートの食堂で好きなものを食べたとか、お正月の伊勢海老を姉たちと争って食べた‥‥とか、私とはまるで次元がちがうところで大きくなっている。

若いときから料理が趣味だったという義母の作る食事には、ハートとエネルギーが注がれていて、私の祖母や母とは月とスッポン。そんな義母のそばで、私は何度か顔を赤くしたが、習うことも多かった。当時、マヨネーズなど、田舎の人は知らなかったし、売ってもいなかったが、義母は、自分で作っていた。
残念なことに、義母は70歳を前にして、世を去っている。

その後、炊事係りを一手に引き受けた私は、時々義母を思い出しては、奮戦努力はしていたものの、義母の足もとにもおよばなかった。三ツ子の魂何とやら、心のどこかに、料理を軽んずるアクマが巣くっていたし、朝早くから夜まで外で働く主婦としては、手間暇をかけることは、難しいことだった。

テーブルに並べた料理を見るなり、夫は、「どうしてもっと大きな皿を使わんの? 同じ食べても味が違うぞ」と、お皿の大きさ、色合いにも気がつくのだ。「そうだね。じゃあ取り替えるわ」そう言いながらも心の中では、(手間かかるねえ、この旦那)なんてつぶやいていたのだ。

私は退職してから、胆石手術のため、四十日ほど家をあけたことがある。今のように簡単な手術ではなかった。隣に住む息子の嫁に、食事一切のめんどうをかけた夫が、「うちの嫁さん、料理が巧いわ。いい味つけするし、センスもある」 とほめながらも、「この年齢がくると、おまえの料理がいちばん口に合うなあ。おふくろの味に似てきたんとちがうか」 なんて言ってくれた。亡くなって十数年もたっている「おふくろ」が出てきたりして、ちょっとおかしかったが、何とも光栄なことだったのを憶えている。

次元のちがった夫婦も、長年連れ添うと、それぞれの底を持ち上げたり掘り下げたりして何とか落ち着くものらしい。

夫が他界してもう18年が過ぎた。私の食生活も独りになると、ごてごてと手間をかけることもなく、簡単になってきたのだが、その反対に、外食産業は随分発達してきたし、店頭には、たくさんの惣菜が並んでいて、便利になっている。食いしん坊だった夫が生きていたら、どんな食生活になるのだろうか、と思ったりする。

 

2 件のコメント:

  1. 戦中、戦後を生きた私。食べ物なんてあれば良かったので、家で料理の工夫などすることはなかったようです。別に不満は感じなかったですね。野菜の煮物と半麦ご飯があれば御の字でした。

    マヨネーズの作り方は学校でならったように思います。カレールーはなかったですね。これも家で小麦粉を炒めるところからやりました。今のように外食店はありませんでしたからね。何もかも変わりました。社会の核の部分が変わったので、それにつれて、なにもかも・・・これからも変化は続くのでしょうか。

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    1. >野菜の煮物と半麦ご飯があれば御の字でした。

      私は、半分もお米が入ったごはんは、戦中戦後のしばらくはなかったですね。お麦のほか、色々な雑穀がまじっていて、白いお米は、僅かでした。(笑)
      今から思いますと、栄養は、白米より、よかったわけですね。栄養失調にもならずに生き延びたのですから。

      世の中の変化には、なかなかついて行けない時代がくるでしょうね。

      もうすぐ、スマートフォンをつかいこなせないようでは、人間じゃないみたいに言われるかもね。(::)

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