2012年3月18日日曜日

日記帳

60歳になった時、ちょうど区切りがいいので、10年日記を付けることにした。10年日記というのは、書くスペースが少ないので、メモ帳に毛が生えたようなものなのだが、それだけに続けることは易しい。
始めるときは、いいところ1冊で終わりまで続いたなら、まあまあいい、と思ったのだが、1冊目は、またたく間に終わった。ひどく早い10年だったと、ゾッとした。

2冊が終わったときは、ゾゾゾッとしたものだ。老人の年月の早さは、残された人生を分母にするものだから、そういうことになるのだ。

3冊目に入る時、これからの80代という人生が、70代のそれとは、かなりの違いがあることを考えて、パソコンの中で、日記帳を見つけて書きこんでいる。
過去2冊の日記も、メモのような日記は、残す意味もなく、焼き捨ててしまった。

たとえば、こんなことがある。十年前の今日は、どんなことをしていたのだろう、と思って見てみると、ひどく元気がよくて、「プールが空いていたので、ゆっくりと1500M泳いで帰ってきた」なんて書いてある。わあ、随分の違いがある、もう、水泳も止めて久しい。今なら、100メートル泳いでも、息切れがするだろうなあ・・・この老化の著しさ!なんて、思うだけでしんどい。()

ま、それだけではないのだが、そろそろ、いつ倒れてもいいように、身辺の持ちモノには、気を使う。残された家族が、「捨てていいものやら悪いものやら」などと困るようなものは、捨てておくにかぎる。

それとは反対に、前向きに生きて行こうという気持ちは、10年前とかわっていない。いや、以前よりも、強くなっているやもしれない。というのは、「やる気」というのは、しっかりと鎖でつないでおかねば、年々消え去っていくもので、実際には、しなくても気だけでも、もっていないといけない、と健気にも思っているのだ。(ほんと気だけだが)

何事も、休んで一服していると、その場で止まることができず、ずるずると落ちて行くのが老人である。『やる木』を枯れさせないよう、やっていきたいものである。




4 件のコメント:

  1. 日記をつける習慣のない私は、最近、昨日の事やら一昨日の事やら、去年の事やら一昨年の事やら分からなくなってきています。やっぱり、備忘録としても日記をつける習慣をつけておいたら良かったと、反省しきりです。

    所で、「やる木」にはどんな肥料を施したらいいんでしょうかね。私の「やる木」は、この頃元気がないのです。

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    1. お六さん。肥料ですか。そんないいものあったら、教えてね。少々高価でも、買にいきますからね。(^^)
      そうだ。お六さんは、ワンちゃんじゃないの?

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  2. 私のやる木枯れてしまいました。日記をつけなかったからでしょうか。月日は後戻りできないし、後悔先にただずです。

    私の10年前、娘の家と自分のマンションを行ったり来たりしていたように思います。記憶ですから正確ではありません。過去も、未来も大雑把な人生です。

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    1. mimiさん、「大雑把な人生」なら、私も負けません。
      そもそも、大雑把でなかったら、今日まで生きていないだろうなあ。
      私は大雑把ゆえに、いたるところで抜けていて、よく失敗します。
      「こんな間違いよくやるなあ…」と、自分で感心しています。(;;)

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